実話を基にしたNetflix映画
「雪山の絆」
「雪山の絆」原題:Society of the Snowは、2023年のスペイン・アメリカ・ウルグアイ・チリ合作映画
1972年のウルグアイ空軍機571便遭難事故を題材としたJ・A・バヨナ監督のサバイバル スリラー映画
Netflixより2023年1月4日配信開始
「雪山の絆」は第80回ヴェネツィア国際映画祭をコンペティション外枠で公開され、2023年12月13日にウルグアイで劇場公開されました。 2023年12月15日にスペイン、2023年12月22日に米国 、その後2024年1月4日にNetflixでストリーミング配信となりました。
この作品は批評家から高い評価を受け、何人かの批評家がこれをJ・A・バヨナ史上最高の作品と言っています。
この映画は、第96回アカデミー賞国際長編映画賞のスペイン作品に選ばれ、12月の最終候補作15作品のうちの1つとなっています。
キャストはウルグアイ人とアルゼンチン人の俳優で構成されており、そのほとんどが新人です。
キャスト
エンゾ・ヴォグリンシク
アグスティン・パルデッラ
マティアス・レカルト
エステバン・ビリャルディ
ディエゴ・ベヘッシ
フェルナンド・コンティジャーニ・ガルシア
エステバン・ククリスカ
フランシスコ・ロメロ
ラファエル・フェダーマン
ヴァレンティノ・アロンソ
等が出演しています。
実話!ウルグアイ空軍機571便遭難事故
「雪山の絆」は実話を基に作られています。
その基となった実話は
ウルグアイ空軍機571便遭難事故です。
ウルグアイ空軍機571便遭難事故(ウルグアイくうぐんき571びんそうなんじこ、英語: Uruguayan Air Force Flight 571)は、1972年10月13日にウルグアイ空軍の571便機がアンデス山脈に墜落した航空事故。
乗員乗客45人のうち29人が死亡したが、16人は72日間に及ぶ山中でのサバイバル生活の末に生還した。この出来事は奇跡的として多方面からの注目を浴びるが、同時に生存者が死者の人肉を食べて飢えを凌いでいたことをめぐり物議を醸すこととなっています。
カニバリズム‥生きるための人肉を食べるのか?食べないのか?衝撃の決断ですよね。
ウルグアイ空軍機571便遭難事故概要
10月13日
1972年10月、ウルグアイのラグビー・チームなどの一行を乗せたチャーター機が、試合の行なわれるチリに向かう途中で、アンデス山脈の標高4200メートルの地点に墜落した。この事故は、現代で最も過酷な生存への試練の物語として知られることになった。
飛行機の上昇可能高度上限が9,000 m (30,000 ft)である上に悪天候であったために、メンドーサからアンデス山脈にそって南下し、山脈の切れ目であるプランソンを西に通過してクリコのすぐ南の地点で山脈を抜け、そこから山脈のチリ側を北上してサンティアゴへ向かうこととなった。
天候が回復したため、飛行機は午後にメンドーサを出発してすぐに山脈の切れ目を通過していた。ここでパイロットはサンティアゴの航空管制官に対して現在地点がクリコであると通知したが、これは後に致命的な過ちだったと判明した。
コースが雲に覆われていたので、パイロットは標準的な通過時間を計算することで西から北に方向を変えるタイミングを図った。しかし、実際には、強い向かい風で機体が減速していたために、山脈の切れ目を抜けるには通常よりも長く時間がかかるはずだった。そのため、山脈の西側に十分に達していないうちに北上を開始した。
山々を深く覆う雲の中に突入して間もなく、当時は無名だった峰と1度目の衝突をした 。衝突地点はソスネアド峰 (Cerro Sosneado) とティンギリリカ火山 (en) の間の人里はなれた山地であり、チリとアルゼンチンの国境にまたがる高度4,200メートルの地点だった。
吹き飛んだ右翼で垂直尾翼が切り取られ、胴体後部に穴が空いた。別の峰との再度の衝突で左翼もなくなり、機体はただの空を飛ぶ胴体だけとなった。機体は、飛んできたプロペラによって切り裂かれたのちに、地面に衝突し、険しい崖を滑落して最終的に雪に埋まって停止した。また機体の尾部は多くの荷物を積んだまま胴体とは分離して別の場所へ滑落した。乗客3人と乗員2人が機外に放り出され、9人が即死し、負傷が元で初日中に3人が死亡した(死亡12人、行方不明5人、生存28人)。
残った28人は凍てつくように寒い高山でどうやって生存するかという難問に直面した。防寒着や雪を踏み分ける防寒靴などの装備がなかった。雪眼炎を防ぐサングラスもなく、最後の生存者のひとりである24歳のアドルフォ・"フィト"・ストラウチは、操縦室のサンバイザーを加工してサングラスを作り、目を守った。多くの人が墜落直後に席から放り出されたことによって足を骨折していたが、医療品もなく、生存した医大生2人が航空機の支柱で添え木を作った。
この墜落で、操縦席にいた2人の乗員を含む12名が即死。翌朝までには、さらに5名が怪我のために死亡し、残された28名の生存者が救援を待った。防寒服も十分な医薬品もない状況だったが、生存者たちは、数時間後とは言わずとも数日中には救援が来るだろうと楽観していた。
しかし、それは間違いだった。捜索隊がウルグアイ、アルゼンチン、それにチリから派遣されたが、彼らは飛行機が墜落した場所について曖昧な情報しか持っていなかった(パイロットは墜落の前に、不正確な位置を報告していた)。白い機体も、雪の上では視認性が悪かった。そのため、正式な捜索活動は、墜落から8日後に打ち切られたのだ。
捜索が打ち切られた同じ日には、さらに1人の生存者が怪我のために亡くなった。生存者らは、残骸の破片がちらばる中から小さなラジオを発見していたのだが、そのラジオで、救援隊が生存者のいる望みを捨てたというニュースを聞いた。
状況はもはや最悪で、望みは絶たれかのように思われた。しかし、グスターボ・ココ・ニコリッチ氏は、自分たちの力で助かればいいだけだ、と他の生存者らを鼓舞した。
[以下は生存者のインタビューを元に作られた本『生きてこそ』からの引用]ニュースを聞くと、ロイの周りに居た生存者たちは、パラードを除いて全員すすり泣いて祈り始めた(パラードは冷静に西にそびえる山を見上げた)。グスターボ・ココ・ニコリッチは、機体から出て、彼らの顔を見、彼らが何を聞いていたかを知った。ニコリッチは薄暗い胴体の入り口へスーツケースとラガーシャツを使って登り、振り返ると「ほら、少年!」と叫んだ。「朗報だ! ラジオを聞いた。捜索が中止された」。機体の中は沈黙していた。……パエスは怒って「一体それのどこが朗報だ?」と叫んだ。「この意味は、」とニコリッチは言った。「我々は自分たちでここを脱出するということだ」この1人の少年の勇気で、完全な絶望が満ちることは防がれた。
機体は、今や仮設の避難所となっていた。亡くなった人たちの身体を移動し、生存者らは最悪の天候から身を守った。また、操縦席のサンバイザーから急造のサングラスをこしらえて雪盲を防いだ。骨折した部位を固定する添え木や支持具は、別の残骸から即席でこしらえた。しかし、食べ物の代わりにできるものはなかった。
彼らが持っていたのは、数枚の板チョコレート、搭乗客用のスナック菓子、それに機内にあった数本のワインだけだった。だが、それも長くは続かず、餓死への恐怖が頭をもたげてきた。
機体内で議論が行われ、ロベルト・カネッサは仲間の遺体を人肉食して生存を続けることを主張した。何人もの生存者が食べることを拒否したが、ロベルト・カネッサが主導権を握った。この決定は人肉食する相手のほとんどが彼らの親友・級友であったので軽い決定ではなかった。
生存者のひとりナンド・パラードの著書で2006年に出版された『アンデスの奇跡:72日間を生き延びて山脈から生還』ではこう綴られている。
「 高山では、身体に必要なエネルギーは膨大だった。…新たな食料を発見するという望みはなく、我々は本気で飢えていた。我々は新たな食料を探し求めて機内を捜索した。…何度も胴体の中を探し回り、モーゼルで山を登った。我々は、荷物の断片である革片を、それに使われている化学物質が身体に与える益よりも害が大きいことを知りながら食べようとした。我々は藁を見つけようとして多くの座席やクッションを切り裂いたが、藁は使われていないことがわかった。…我々は何度も同じ結論に達した。我々が着ていた衣服は食べられないし、アルミニウム、プラスチック、氷、岩石以外に何もここにはなかった。 」
乗客は全員カトリック教徒だったが、ピアス・ポール・リードが、問題となっている行為は聖餐と同一視されると主張した。それは唯一の生存の方法であった。他の人々は、そのことを祝福したが救出後にその行為が発覚したときには態度を翻している。
10月29日
惨事が再び襲った。雪崩が起きて機体の一部が埋まり、さらに9名が死亡したのだ。さらに1人の少年が怪我で亡くなった。[集団を勇気づけたニコリッチ氏も、この雪崩で死亡した。20歳だった]
救援を待っていても無駄だということが理解された結果、最も体力のある3名の生存者ロベルト・カネッサ、ナンド・パラード、アントニオ・"ティンティン"・ビシンティンの3人が、助けを求めるためにアンデスから歩いて抜け出す、という危険な試みを行なうことに決まった。何度かの失敗の後に、食料の消費を最小限に抑えるために、パラードとカネッサが遠征を継続し、ビシンティンは自分の食料を2人に預けて墜落地点へ戻った。
2人は雪線の下に何とかたどり着いた。
アンデスを出発してから12日後、2人は馬に乗ったチリ人たちを発見した。2人は、山の中にまだ生存者がいることを伝えるメッセージを彼らに託した。12月半ばのことだった。
ようやく、ヘリコプターによる救助活動が、墜落から72日後に開始された。12月23日までに、生き残った16名は救出された(最初にいた乗員乗客は45名だった)。