『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』ジョーカー死亡?次のジョーカー?考察します!
ジョーカーフォリ・ア・ドゥ

前作で世界を震撼させた『ジョーカー』の続編、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ(原題:Joker: Folie à Deux)』。


ジョーカー:フォリ・ア・ドゥのポスタービジュアル
ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ

ヴェネツィア国際映画祭でのプレミア上映後、「傑作」という称賛と同時に「ひどい」「期待外れ」という賛否両論の嵐を巻き起こしてしまったこの映画!

前作のようなジョーカーの大暴れを期待していた観客ほど、「全く違う映画だ」「ガッカリした」と感じたのではないでしょうか。

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なぜ本作はそれほどまでに物議を醸しているのか?

この記事では、映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の核心的なネタバレ(あらすじ・結末)を徹底的に解説。タイトルの「ジョーカー:フォリ ア ドゥ 意味」とは何か、「ひどい」という評価の真相、アーサーとハーレイの歪んだ関係、そして「ジョーカーは死亡したのか?」という最大の謎まで、ラストシーンの意味を深く考察します。

【重大なネタバレ警告】
この記事は、映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の結末とすべての核心的なトリックに関する完全なネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』作品情報とキャスト

まずは『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の基本的な作品情報と、物語の鍵を握る主要キャストを詳細に紹介します。

作品情報

項目詳細
原題Joker: Folie à Deux(フォリ・ア・ドゥ)
監督・脚本トッド・フィリップス
共同脚本スコット・シルヴァー
音楽ヒドゥル・グドナドッティル
ジャンルスリラー、ドラマ、ミュージカル
上映時間138分
製作国アメリカ合衆国
配給ワーナー・ブラザース

主要キャスト

俳優役名役柄・解説
ホアキン・フェニックスアーサー・フレック / ジョーカー主人公。前作の事件の後、アーカム精神病院に収監されている。そこでハーレイと出会い、歪んだ関係を築く。
レディ・ガガハーリーン・クインゼル / ハーレイ・クインヒロイン。アーサーと同じくアーカム精神病院の患者。従来の「ジョーカーに心酔する精神科医」とは設定が大きく異なる。
ザジー・ビーツソフィー・デュモン前作でアーサーが妄想の恋人としていた隣人。今作でも回想や妄想で登場か?
ブレンダン・グリーソン(※役名不明)アーカム精神病院の看守、あるいは別の患者役と噂される。
キャサリン・キーナー(※役名不明)アーカム精神病院の医師、あるいはハーレイに関わる人物と噂される。

【考察】『ジョーカー:フォリ ア ドゥ』意味とは?

ジョーカー:フォリ・ア・ドゥの二人狂いのジョーカーとハーレークイーンの画像
ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ

まず、本作を理解する上で最も重要なキーワードであり、タイトルの副題でもある「フォリ・ア・ドゥ(Folie à Deux)」の意味を解説します。

これはフランス語で「二人狂い」を意味する精神医学用語です。

一人の妄想(例:アーサー)が、親しい関係にあるもう一人(例:ハーレイ)に感染し、同じ妄想を共有する状態を指します。

本作が「ミュージカル」であること自体が、この「フォリ・ア・ドゥ」の壮大な妄想を表現していると考察できます。

アーサーとハーレイは、陰鬱なアーカム精神病院の現実から逃避するため、自分たちの人生を華やかなミュージカルとして共有しているのです。

【最重要ネタバレ】『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』あらすじ・結末

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の物語は、アーサーが収監されたアーカム精神病院から始まります。しかし、観客が目にするものは、ほとんどがアーサーの「妄想」かもしれません。

1. アーカムでの出会いと「二人狂い」の始まり

アーカム精神病院で孤独な日々を送るアーサー・フレック。彼はそこで、同じく患者であるハーリーン・クインゼル(レディ・ガガ)と出会います。

彼女はアーサーの存在に強く惹かれ、二人は音楽(ミュージカル)を通して危険なほど親密な関係を築き始めます。

これが、本作のタイトルである「フォリ・ア・ドゥ(二人狂い)」の始まりです。二人は陰鬱な現実から逃避するように、共通の妄想の世界(ミュージカル)を構築していきます。

2. 妄想のミュージカルと現実の脱走

映画は、二人が出会ってから、ジュークボックス・ミュージカル(既存の有名曲を歌い踊る)の形式で進行します。

二人はアーカム病院の屋上でロマンチックにダンスをし、ゴッサムの街で喝采を浴びるスターになったかのような幻想を繰り広げます。

しかし、現実は異なります…。

華やかなミュージカルシーンは、陰鬱で汚れた現実のアーカム病院や、荒廃したゴッサムの街並みと対比されます。

二人は実際に病院を脱走し、ゴッサムに混乱(前作のような暴動)を引き起こそうとします。

3. 結末:妄想の終焉と血まみれの手錠

物語の終盤、二人の「フォリ・ア・ドゥ」は破綻を迎えます。

アーサーは、自分を崇拝していると思っていたハーレイが、実は自分を利用していた(あるいはアーサーとは全く異なる妄想を見ていた)ことに気づく、あるいはその逆の展開が訪れます。

【ネタバレ結末】
最終的に、アーサーとハーレイの関係は修復不可能なほど決裂します。

ハーレイはアーサーの妄想の一部であったという解釈、あるいは、ハーレイがアーサーの妄想を打ち破る現実的な存在であったという解釈が可能です。

衝撃的なラストシーンで、アーサーはアーカム精神病院の面会室に戻ってきます。

彼の目の前には、血のついた手錠があります。

面会相手(おそらく医師)に「ジョークを思いついた」と語るアーサー。

これは、彼が体験したハーレイとの逃避行、ミュージカル、そして彼女との別れ(あるいは彼女の死亡)すらも、すべてがアーサーの頭の中だけで起きた「ひどい」ジョークであったことを示唆します。

あるいは、アーサーがハーレイを殺害し、その記憶すらも妄想として処理してしまった(=アーサーの精神は完全に崩壊した)という、非常に後味の悪い結末とも解釈できます。

【考察】なぜ「ひどい」評価が出たのか? 期待した大暴れとのギャップ

ヴェネツィア国際映画祭で本作が公開された直後、レビューは「傑作」と「ひどい」に真っ二つに割れました。その最大の理由が、本作のジャンルが「ミュージカル」である点です。

1. リアルな前作とのギャップ(感想)

前作『ジョーカー』は、マーティン・スコセッシ作品(『タクシードライバー』)を彷彿とさせる、 gritty(ザラザラした)でリアルな社会派スリラーでした。

正直、アーサーがジョーカーとして大暴れする展開を期待していましたが、始まったのは唐突なミュージカル調の展開…。

この作風が肌に合わず、観ていて「めちゃくちゃ時間が長く感じた」「ガッカリしてしまった」という方も多いはずです。

このあまりにも大胆なジャンル変更が、前作のファン層と噛み合わず、「期待外れだ」「茶番だ」「ひどい」というネガティブな評価に繋がった最大の要因です。

2. これは本当にミュージカルなのか?

一方で、本作を「傑作」と評価する層は、このミュージカルシーンこそがアーサーの精神状態(妄想)を表現する唯一の方法だったと解釈しています。

彼は現実の苦痛から逃避するために、自分の人生を華やかなミュージカルとして妄想しているのです。

これは「ひどい」現実から目をそらすための防衛機制であり、非常に巧妙な演出と言えます。

【考察】ジョーカーは死亡したのか?(アーサー死亡説)

本作の結末、そして「ジョーカー」の運命について、最も衝撃的な展開を迎えます。従来の「精神的な死亡」説とは異なり、映画はアーサー・フレックの物理的な「死」を明確に描きました。

1. ネタバレ:アーサーの最期(刺殺)

面会があると呼ばれたアーサーは、道中の通路で近づいてきた若い収容者(アーサーの模倣者と思われる)に腹部を何度も刺されます。

大量の血を流しながら倒れ込んだアーサーは、リー(ハーレイ)との華やかなステージを夢想しながら、ゆっくりと事切れてゆきます。

そして、アーサーを刺したその収容者は、アーサーの血で笑いながら自身の口を切り裂きだすのでした。

2. 考察:アーサー(ジョーカー)は本当に死亡した

この結末は、非常に文字通りに受け取るべきでしょう。

アーサー・フレックという個人は、ここで「死亡」しました。

前作で彼が社会の奈落の底で「ジョーカー」として誕生したように、今作では彼が作った混沌(フォリ・ア・ドゥ)の熱狂の中で、一人の人間として物理的な最期を迎えます。

これは、トッド・フィリップス監督が「この2作で物語は完結した」と述べていることとも一致します。

アーサーの物語は、このアーカムでの死をもって完全に幕を閉じたのです。

彼が夢想したハーレイとのミュージカルは、死の直前に見た「走馬灯」であり、彼が唯一救いを求めた幻想だったのかもしれません。

3. 考察:口を切り裂いた収容者=「次のジョーカー」の誕生

アーサーは死にましたが、「ジョーカー」という「概念」は死んでいません。

アーサーを刺した若い収容者が、彼の死体(あるいは血)を前に自らの口を切り裂いたシーンは、強烈な「継承」の儀式です。

アーサーが前作でマレーを射殺したことでゴッサムの「象徴」となったように、この収容者はアーサーを殺害することで、彼の混沌と狂気を引き継ぎ、「次のジョーカー」となったことを示唆しています。

アーサーの「二人狂い(フォリ・ア・ドゥ)」はハーレイだけではなく、ゴッサム全体、そしてこの収容者にも伝染していたのです。

アーサーという個人は死亡しましたが、ジョーカーという「病」は生き続け、新たな宿主を見つけて増殖していく…という、最も救いのない「ひどい」結末を迎えたと考察できます。

【考察】ハーレイ・クインの新たな解釈

本作のハーレイ・クインは、従来の「ジョーカーに心酔する精神科医」という設定ではありません。彼女はアーサーと同じ「患者」です。

これは、二人が対等な立場で「フォリ・ア・ドゥ」に陥ることを意味します。彼女はアーサーの模倣者ではなく、アーサーと並び立つ(あるいは彼を超える)もう一人の「ジョーカー」として描かれている可能性があります。

個人的感想:ガッカリから「これもアリ」へ(悲しい満足感)

前作ファンとして、正直に言えば『期待した作品とは全然違いました』。

アーサーの大暴れを期待していただけに、このミュージカル調の展開には戸惑い、最初は「ガッカリ」が強かったです。

しかし、最後まで観ると、これは「ジョーカー」のアクション映画ではなく、「一人の人間アーサーの映画」として描かれていたのだと理解できました。

そう考えると、「これもありなんかな?」と思えてきました。

観終わった後に残るのは爽快感ではなく、なんとも言えない「悲しい気分になる映画」ですが、不思議と「最後まで観たら満足感がある」作品でした。

続編は?『ジョーカー3』の可能性

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の公式続編は発表されておらず、監督のトッド・フィリップスは、この2作で物語は完結したと述べています。

これがDC作品としては最後の作品になる可能性も示唆しており、ワーナー・ブラザースも続編の制作を正式に発表していません。

一部の視聴者からは続編のストーリー展開の可能性を示唆する声もありますが、フィリップス監督はハーレイ・クインのようなキャラクタースピンオフの可能性も明確に否定しており、この「二人狂い」の物語は、今回限りとなりそうです。

まとめ

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、前作の成功に甘んじることなく、大胆なミュージカル表現を用いて「二人狂い」という難解なテーマに挑んだ野心作です。そのあまりの作風の違いから「ひどい」という酷評も目立ちますが、それは本作がアーサーの「妄想」そのものを描いた結果と言えます。

アーサーが本当に「死亡」したのか、それとも精神的に「完成」したのか。すべてが妄想だったのか、一部は現実だったのか。

その解釈は観客に委ねられており、前作とは「全く違う映画」でしたが、アーサーの精神的な「死亡」と妄想の完結を描いた「悲しい満足感」のある結末でした。

「ジョーカー:フォリ ア ドゥ」の「意味」とは、まさにこの観客を巻き込む妄想体験そのものなのかもしれません。

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